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  • 執筆者の写真Toshihiro Doi

そもそもの話の大切さ

更新日:2019年8月25日

先週、生まれて初めて我が子の家庭訪問を経験した。もちろんこれまでは忙しくて任せていたのだが、たまたまスケジュールも空いていて対応することができた。先生たちもびっくりしていたが・・

その中の話で、うちの子の字が雑だ、という話題からそもそもなんのために宿題で漢字1ページを書くのか、という話になった。覚えるため?書くことの修行?1ページ必要か?日記の宿題は誰のため?覚えるためなら1回書くだけで覚える子もいるし、5ページ書く必要がある子もいるはず、目的は漢字を覚えて書けるようになること。(そもそもそれも要らない気もするが・・)だったらそれに必要な手段は自分で決めてもいいのでは?という話になった。



ある高校では「地毛申請」というものがあった。茶色っぽく見える子や、天然パーマの子は、事前に教員にわかってもらい、注意されないようにするため、個別の申請がいるそうだ。

「高校生らしくみえるように」ということのようだが、そもそもその ”らしく” という定義は誰が決めているのか?カラフルな髪の毛の方がよっぽど個性的で高校生らしいかもしれない。

「多様性を認める」、「社会に開かれた」と言いつつ全くそうなっていない現実。子どもたちはどう自分を納得させて生きていくのか?むしろそれを受け入れる力をつけさせたいのか。目的が見えない指導の現実を見た。



さて、これをICTに置き換えて考えても、同じことが言える。文部科学省から整備の指針が出され、今国会では法案まで通る見通しになっている。

各学校や自治体では、いよいよ ”しなければならないこと” に位置付けられる。


同じようにそもそもの話が言えるのではないか?なんのためにICTを入れるのか、どこまでそれを真剣に議論し、結論を出しているのだろうか。指針が出て、法案にあるから整備する、これは現場への責任転嫁だ。



自分たちの学校や地域の子どもたちの現状の把握、分析

こんな部分に課題

これからの授業をこういう風に変えていく必要がある

その授業をするためにICTの環境は必要だ

だからこんな環境を整えよう


と思考するのが本筋ではないか?これからの未来を生きる子どもたちに、何を私たちは学び取らせればいいのか、学べる環境をどう構築すればいいのか、最適解は自ずと見えてくる。ネットの世界だけで大体の学びは完結してしまう今の世の中で、学校という場はどうあればいいのか?学校でしかできないことはそもそもなんなのか、変わっていく過程の中で立ち止まり、もう一度再考する必要があるのではないか。

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