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執筆者の写真Toshihiro Doi

人という財産

今週、宮崎から幼馴染が大分に帰ってきた。その夜、小学校、中学校の同級生が20名程度集まった。ここ数年、別府市出身の人たちは40歳になる年に”2回目の成人式”なるイベントを開催していて、私も出身中学の幹事をしていた。その際に集まった旧友と再び集まることになったのだ。


別府に集まった同級生たちは、皆それ相応に歳をとってはいるが、中身は全く変わってなく、本当に当時のことをよく覚えている。それぞれいい年になり、お互いの仕事や家族のことを思いやり、適度な距離感を保ちつつ楽しい時間になった。



私はたまたま地元にいるので、連絡をくれる友だちも多くいて、今だに仲良くしてくれる。友だちは小さい頃からの友だちもいれば、高校、大学、そして社会人になってできた友だち、父親仲間、仕事仲間など自分の中にもいろんなステージでの友だちがいる。それは自分の中で層になり、重なっているイメージだ。その深いところにいるのがきっと幼馴染ではないだろうか。自分が大切に想うと、なんとなく相手もそう思ってくれるような気がしている。


そのつながりの多くはFacebookやLINEなどのSNSやメッセージアプリで、それさえわかればいつでも連絡を取ることができるし、グループで会話もできる。それはきっと、これからを生きる子どもたちも同じだろう。つながり依存、などという言葉もあるが、実際私もつながり依存なのかもしれない。それは本当にダメなことなのだろうか。



もちろん相手を思いやることや、自制しながら使うことは必要である。でもその距離感や言葉の使い方、感覚などは子どものうちに、リテラシーとして学ばすべきではないだろうか?様々なSNSの特性を掴み、用途によって使い分けながら、人とつながっていく。これは今の段階でも必要なスキルだろう。情報を集めてまとめて伝える、いわゆる情報活用能力の育成の中で、そんなことも学ばせるべきだ。


高校生の9割以上はスマホを所有し、毎日使ってはいるが、ほとんどの学校では学内の使用を禁止している。正門を出た瞬間、子どもたちはスマホを取り出し、夜中まで使っている。使えない時間は学校の中だけだ。もし授業中に自由に使うことができれば、わからない言葉をすぐ検索し、理解できるかもしれない。意見を集約し、子どもたちからのフィードバックをすぐに集めることができるかもしれない。

テクノロジーを使うことで、授業の中での可能性は広がる。この現状は、ただただ学校が管理して、統制したいからではないだろうか?自由に使わせ、失敗させながらリテラシーを身につけさせていく経験を積ませる必要がある。



現実世界と学校の文化にはまだまだ隔たりがあり、それはどんどん大きくなっている。特にテクノロジーに関しては一気に開きが出ている。そのことにうっすら気づきながら、なかなか進んでいかないこの現状、どうすれば打破できるのか?


”社会に開かれた”、”社会とつながる”、などのキーワードは出ているがまだまだそうはなっていない。学校でも、家庭でも、地域でも、社会でもそのことを親身になって考え、重い学校の扉を開いていくことが大切だ。それが子どもたちのつながりを作り、多くの財産を作っていく。

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