Toshihiro Doi2022年7月2日読了時間: 4分学び続けること今週も相当暑い毎日だった。極めて短かった梅雨・・その中で大分で雨が降ったのはわずか5日、ようやく植えた稲だが、水不足が本当に心配になる。うちの田んぼの水源はため池だ、同時に山からの水も流れてくるけど、大半は池から供給されていて、雨が降らないと近隣の田んぼ含め、大変な状況になる。とはいえ自分の力でどうにかなるものでもなく、祈るしかない。そういう自然現象に対しての無力さを感じるのも農業ならではだ。偉大な自然に敬意を払ったり、諦めたり、または感謝の念を抱けるのも、土に触れ、作物を育てているからなのかもしれない。しかしとにかく暑い、都会の暑さと田舎の暑さの違いも感じることができた。まだ田舎の暑さは自分には許容範囲だ。今週もたくさんの人と対話し、思考を重ねる毎日だった。綱渡りのようなスケジュールで、日々追われてはいるが、充実している。そんな中で「学び」について考えてみた。「主体的、対話的で深い学び」と呪文のようにあちこちで言われ、その学びの姿を求めて頑張る先生たちがたくさんいる。学ぶとは一体何なのだろうか。学ぶことの意味、価値、意義はどこにあるのか。教師という仕事を選択した以上、実はこんな法律に縛られている。教育基本法9条(研修) 法律に定める学校の教員は、自己の崇高な使命を深く自覚し、絶えず研究と修養に励み、その職責の遂行に努めなければならない。教育基本法の中で、研究と修養に励み、その職責の遂行に努めなければならない、となっている以上、学ぶことはこの仕事をする上で、絶対にしなければならない仕事の一つなのだ。これは古い話ではなく、「令和の日本型学校教育」の構築を目指して」の中にも『環境の変化を前向きに受け止め、教職生涯を通じて学び続けている』ということが、これからの教職員のあるべき姿として書かれている。では実際はどうだろうか?先生たちは、学ぶことを仕事として認識し、現在進行形で学べているだろうか?忙しすぎる業務を言い訳にし、学びを止めてしまってはいないだろうか。学ぶことそのものをしんどく感じ、学んでいない先生はいないだろうか。今は、学びを求めていけば、簡単に得ることができる。この数年はオンラインセミナーが当たり前になり、いい学びの場を、自らが求めれば得られるようになってきた。以前はある程度の覚悟と、お金、時間がないと学ぶことは難しかったし、地方にいれば尚更学びのチャンスは少なかった、でも今はオンラインが当たり前になり、地方からでも学びに参加することができるし、本屋に行かずとも、翌日には読みたい本が手に入る世の中に変容してきた。あとは学ぶ意欲の問題だ。研修と一口に言ってもいろんな種類があり、中には不本意ではあるけれど、行かなければならないものもあるだろう。でもわざわざ時間を使って、時間を作ってそこに出向くのであれば、その時間を有効に使わない理由はない。どんな視点で何を学ぶのかは本人次第だ。アンテナの感度を高め、学びのポイントを見出すことも必要だ。学ぶことは本来楽しいことで、苦しいことではないはずだ。新しい知識を得たり、問題や課題を解決することは心躍る行為だと思う。その喜びや楽しさを伝えることが大切な学校の役割なのではないだろうか。そのためにも先生自身が学びを楽しむ姿をもっと見せていくべきだし、そもそも楽しく学んで欲しいと思う。自分が研修を実施する側に立って、9年目になる。自分がずっと心掛けていることは、とにかく楽しい時間にすることだ。学ぶことの楽しさ、何かができるようになることの喜び、それを大切にしている。その楽しさから得たワクワクを、明日の授業で子どもたちにぶつけてほしい。研修は先生のためではなく、その先にいる子どもたちのためで、研修を受講した結果、授業が変わり、子どもたちがその変容によって学ぶことの楽しさを感じてくれて初めて意味がある。そこまでをイメージし研修をデザインすることを常に心がけている。そんな楽しくて、行動変容につながる研修をこれからも、ただただ作っていきたいし、し続けたいと思う。
今週も相当暑い毎日だった。極めて短かった梅雨・・その中で大分で雨が降ったのはわずか5日、ようやく植えた稲だが、水不足が本当に心配になる。うちの田んぼの水源はため池だ、同時に山からの水も流れてくるけど、大半は池から供給されていて、雨が降らないと近隣の田んぼ含め、大変な状況になる。とはいえ自分の力でどうにかなるものでもなく、祈るしかない。そういう自然現象に対しての無力さを感じるのも農業ならではだ。偉大な自然に敬意を払ったり、諦めたり、または感謝の念を抱けるのも、土に触れ、作物を育てているからなのかもしれない。しかしとにかく暑い、都会の暑さと田舎の暑さの違いも感じることができた。まだ田舎の暑さは自分には許容範囲だ。今週もたくさんの人と対話し、思考を重ねる毎日だった。綱渡りのようなスケジュールで、日々追われてはいるが、充実している。そんな中で「学び」について考えてみた。「主体的、対話的で深い学び」と呪文のようにあちこちで言われ、その学びの姿を求めて頑張る先生たちがたくさんいる。学ぶとは一体何なのだろうか。学ぶことの意味、価値、意義はどこにあるのか。教師という仕事を選択した以上、実はこんな法律に縛られている。教育基本法9条(研修) 法律に定める学校の教員は、自己の崇高な使命を深く自覚し、絶えず研究と修養に励み、その職責の遂行に努めなければならない。教育基本法の中で、研究と修養に励み、その職責の遂行に努めなければならない、となっている以上、学ぶことはこの仕事をする上で、絶対にしなければならない仕事の一つなのだ。これは古い話ではなく、「令和の日本型学校教育」の構築を目指して」の中にも『環境の変化を前向きに受け止め、教職生涯を通じて学び続けている』ということが、これからの教職員のあるべき姿として書かれている。では実際はどうだろうか?先生たちは、学ぶことを仕事として認識し、現在進行形で学べているだろうか?忙しすぎる業務を言い訳にし、学びを止めてしまってはいないだろうか。学ぶことそのものをしんどく感じ、学んでいない先生はいないだろうか。今は、学びを求めていけば、簡単に得ることができる。この数年はオンラインセミナーが当たり前になり、いい学びの場を、自らが求めれば得られるようになってきた。以前はある程度の覚悟と、お金、時間がないと学ぶことは難しかったし、地方にいれば尚更学びのチャンスは少なかった、でも今はオンラインが当たり前になり、地方からでも学びに参加することができるし、本屋に行かずとも、翌日には読みたい本が手に入る世の中に変容してきた。あとは学ぶ意欲の問題だ。研修と一口に言ってもいろんな種類があり、中には不本意ではあるけれど、行かなければならないものもあるだろう。でもわざわざ時間を使って、時間を作ってそこに出向くのであれば、その時間を有効に使わない理由はない。どんな視点で何を学ぶのかは本人次第だ。アンテナの感度を高め、学びのポイントを見出すことも必要だ。学ぶことは本来楽しいことで、苦しいことではないはずだ。新しい知識を得たり、問題や課題を解決することは心躍る行為だと思う。その喜びや楽しさを伝えることが大切な学校の役割なのではないだろうか。そのためにも先生自身が学びを楽しむ姿をもっと見せていくべきだし、そもそも楽しく学んで欲しいと思う。自分が研修を実施する側に立って、9年目になる。自分がずっと心掛けていることは、とにかく楽しい時間にすることだ。学ぶことの楽しさ、何かができるようになることの喜び、それを大切にしている。その楽しさから得たワクワクを、明日の授業で子どもたちにぶつけてほしい。研修は先生のためではなく、その先にいる子どもたちのためで、研修を受講した結果、授業が変わり、子どもたちがその変容によって学ぶことの楽しさを感じてくれて初めて意味がある。そこまでをイメージし研修をデザインすることを常に心がけている。そんな楽しくて、行動変容につながる研修をこれからも、ただただ作っていきたいし、し続けたいと思う。
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