Toshihiro Doi2020年7月24日読了時間: 3分情報モラル教育?更新日:2020年7月25日昨日まで大分はかなり雨が降っているたが、今日は一転カラリと晴れだ。先日の豪雨災害の名残も消えないまま、容赦無く次の雨が次々とやってくる。コロナも第2波のような人数の増え方で、情報も錯綜している。何が本当で、何が正しいのか、判別はとても難しい。いろんな数字と、たくさんの専門家の人たちが次々にいろんなことを言い出していて、どれを信じればいいのか、何を拠り所にすればいいのか・・明確に言えないところが怖さなのかもしれない。ただ、なんとなくの怖さや、雰囲気、空気によっていろんなことは制限され、いろんなことは強制される。終わりの見えないことのストレスも大きい。この間の子どもたち、先生たちの心がとても心配だ。いろんな判断は教育委員会や、学校長に委ねられ、わからないまま仕事が増え、働き方改革という言葉も忘れられそうになるくらい忙しいと思う。子どもたちも暑さとマスクと、学習の量、夏休みの短縮など受け入れているけど、ストレスを感じているに違いない。出かけられないことも、長く続く雨も、拍車をかけている。先生や子どもたちに、明るいニュースや元気になる言葉をたくさんかけてあげたい。今週は久しぶりに情報モラルの講演会を行った。今週のブログは「情報モラル教育?」とした。コロナ期間中に、家にいる時間が長く、ゲームやオンラインで遊ぶ時間も増えていると思う。実際にゲーム機は品切れになり、購入のための抽選があるくらいだ。情報モラル教育は90年代に始まったインターネットの時代から、少しずつ始まり、その負の側面を学ぶ必要性から生まれてきた。2000年に教科「情報」の中でも取り上げられ、小・中学校の道徳などでも扱うようになった。今回の学習指導要領の改定の中では、情報活用能力の中に含まれていて、全ての教科、領域の中で扱うことになっている。現場からは、ゲームのやりすぎで昼夜逆転している子どもや、メッセンジャーアプリ、SNSなどでのトラブルが考えられるので、ぜひその怖さを伝えてほしい、という要望が後を絶たない。事実、ずっと毎年講演会を行っていても、その要望は減っていかない。そもそも、これだけの普及率を持っているいろんな端末を、日常的に手足のように扱う子どもたちだ。ネットにつながる機器も増え、身の回りのほとんどの情報はネットを介して触れることになっている。危ないからやめなさい、の理論は到底通用しない。実際に子どもたち自身が危ない目にあったり、困りを感じたときに、私たち大人が何ができるだろうか。モラルのない誹謗中傷やフェイクニュースが溢れる中で、子どもたちが、そういうものと上手に付き合っていくために、どんなことを伝えればいいのか。私たち大人の「講演会をして啓発した」という既成事実を作るための講演はしたくない。情報モラル、というよりは付き合い方や取り扱い方、考え方、倫理観、道徳観のようなものだと思う。情報に限ったことではなく、生きていく上で、人とコミュニケーションをとるときにはどうあればいいか、ということだ。そのくらい身近で、当たり前にそこにあるもので、もはや特別なものではない。鉛筆の持ち方や、箸の使い方を教えるように、家庭でも、学校でも、地域でも、ICTとどう付き合うか、どんなふうに取り扱うかを小さい頃から繰り返し話し、大人も一緒にその付き合い方について考えていきたい。情報モラルという教育がなくなるくらい当たり前になるのが理想の姿だ。学びを助けるパートナー、人をつなぐ道具、社会を変える力がある、こんな風にみんなが捉えることができたら、悪いものや困ったものではなく、当たり前にそこにあるもの、になるかもしれない。
昨日まで大分はかなり雨が降っているたが、今日は一転カラリと晴れだ。先日の豪雨災害の名残も消えないまま、容赦無く次の雨が次々とやってくる。コロナも第2波のような人数の増え方で、情報も錯綜している。何が本当で、何が正しいのか、判別はとても難しい。いろんな数字と、たくさんの専門家の人たちが次々にいろんなことを言い出していて、どれを信じればいいのか、何を拠り所にすればいいのか・・明確に言えないところが怖さなのかもしれない。ただ、なんとなくの怖さや、雰囲気、空気によっていろんなことは制限され、いろんなことは強制される。終わりの見えないことのストレスも大きい。この間の子どもたち、先生たちの心がとても心配だ。いろんな判断は教育委員会や、学校長に委ねられ、わからないまま仕事が増え、働き方改革という言葉も忘れられそうになるくらい忙しいと思う。子どもたちも暑さとマスクと、学習の量、夏休みの短縮など受け入れているけど、ストレスを感じているに違いない。出かけられないことも、長く続く雨も、拍車をかけている。先生や子どもたちに、明るいニュースや元気になる言葉をたくさんかけてあげたい。今週は久しぶりに情報モラルの講演会を行った。今週のブログは「情報モラル教育?」とした。コロナ期間中に、家にいる時間が長く、ゲームやオンラインで遊ぶ時間も増えていると思う。実際にゲーム機は品切れになり、購入のための抽選があるくらいだ。情報モラル教育は90年代に始まったインターネットの時代から、少しずつ始まり、その負の側面を学ぶ必要性から生まれてきた。2000年に教科「情報」の中でも取り上げられ、小・中学校の道徳などでも扱うようになった。今回の学習指導要領の改定の中では、情報活用能力の中に含まれていて、全ての教科、領域の中で扱うことになっている。現場からは、ゲームのやりすぎで昼夜逆転している子どもや、メッセンジャーアプリ、SNSなどでのトラブルが考えられるので、ぜひその怖さを伝えてほしい、という要望が後を絶たない。事実、ずっと毎年講演会を行っていても、その要望は減っていかない。そもそも、これだけの普及率を持っているいろんな端末を、日常的に手足のように扱う子どもたちだ。ネットにつながる機器も増え、身の回りのほとんどの情報はネットを介して触れることになっている。危ないからやめなさい、の理論は到底通用しない。実際に子どもたち自身が危ない目にあったり、困りを感じたときに、私たち大人が何ができるだろうか。モラルのない誹謗中傷やフェイクニュースが溢れる中で、子どもたちが、そういうものと上手に付き合っていくために、どんなことを伝えればいいのか。私たち大人の「講演会をして啓発した」という既成事実を作るための講演はしたくない。情報モラル、というよりは付き合い方や取り扱い方、考え方、倫理観、道徳観のようなものだと思う。情報に限ったことではなく、生きていく上で、人とコミュニケーションをとるときにはどうあればいいか、ということだ。そのくらい身近で、当たり前にそこにあるもので、もはや特別なものではない。鉛筆の持ち方や、箸の使い方を教えるように、家庭でも、学校でも、地域でも、ICTとどう付き合うか、どんなふうに取り扱うかを小さい頃から繰り返し話し、大人も一緒にその付き合い方について考えていきたい。情報モラルという教育がなくなるくらい当たり前になるのが理想の姿だ。学びを助けるパートナー、人をつなぐ道具、社会を変える力がある、こんな風にみんなが捉えることができたら、悪いものや困ったものではなく、当たり前にそこにあるもの、になるかもしれない。
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