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執筆者の写真Toshihiro Doi

絶えず研究すること

天気のいい日が続いている。まさに秋晴れだ、空気も澄んでいて気持ちがいいし、夕焼け、朝焼けも息を呑むほどキレイな日がある。夜の星もこの時期とてもキレイだ。紅葉も進んでいて山の方では葉っぱが真っ赤に色づいている。


今週は祝日もあり、少しゆっくりしたペースで仕事ができた。来週から始まる怒涛の出張ラッシュに備えて、仕込み作業と打ち合わせは続く。早くも次年度の講演会の仕事も入ってきていてありがたいことだ。





先生たちの仕事の中で、「研究」という領域がある。


「教育基本法」

(教員)

第九条 法律に定める学校の教員は、自己の崇高な使命を深く自覚し、絶えず研究と修養に励み、その職責の遂行に努めなければならない。

教育公務員特例法

(研修)

第二十一条 教育公務員は、その職責を遂行するために、絶えず研究と修養に努めなければならない。


とあるように、教員は絶えず研究と修養をしなければならないのだ。これは研修という具体的なものをイメージするだろうが、「絶えず」とあるので日々の業務の中でも研究を続けなければならない。もちろんだが、全員に課せられたものだ。


実際この時期に多くの学校や自治体で行われている校内の研究を進めていくための授業はどういう仕組みになっているだろうか。多くの学校では年度始めに今年度の「授業者」というその学校で代表して授業をする先生を決める。


そしてそういう教員を2、3名選抜して、その人が今年の授業者として然るべき時期に授業を公開し、それを全員で参観し、その授業を材料にしながら、今年の研究仮説が正しかったのか、そうでなかったのか、もっとこうすればよかった、などと意見を交わし合うのだ。「授業者」には圧倒的な負荷がかかる。もちろん勉強にはなるが、人によってはすごく嫌な気持ちになることもある。


大体はその学校の「若手」の先生たちが指名され授業を行うことになる。学校だけではなく、教科の部会や研究会のようなところも同じ仕組みで行うため、多い先生は年間に何本もの授業を抱えることになる。私も年間5本くらい行なっていた。





数名の代表の先生たちが行う授業研究は、その他の先生にとってどれだけの価値と意味を持つだろうか。もちろん外に学びに行ったり、自分で積極的に授業を行ったり、発表している先生もいるが、全体の中ではまだ少数だ。ずっとその構図なので、ベテランの先生たちも若い頃同じ状況を経験していて、「授業者」になる人はほとんどいない。だから研究はあまり先生たちにとって面白い時間ではないのだ。



それぞれに得意、不得意があって、キャリアや年齢がある。それを1本の共通した授業を見ることで全員が一様に学びが深まるだろうか。これは、授業の構図とよく似ていて、いろんなキャリアや学び方、関心ごとの違い、理解度の差がある子ども達に、一つの教材で同質な学びを提供していることと同じに見えてしまう。


子どもたちの個別最適な学びを実現していくのであれば、先生たちの研究も個別最適なものにしていく必要があるのではないだろうか。それぞれの興味関心や、キャリア、年齢に応じた課題を引き出し、そのことについてしっかり時間をかけて研究し、その知見を共有していく方が多くの課題を解決できる。





いくつかの学校や自治体で、一人一つのテーマ研究を行なっている。テーマを決めるところの大変さはあるが、そこをクリアできれば、先生たちは自分の課題に対してしっかり向き合い、研究は進んでいく。そのプロセスで互いの状況を交流したり、困りを出し合ったりしながら、まさに全員が参加した研究の姿になっている。


これまで当たり前に続いてきた、この時期の研究発表や公開授業、事前の指導案審議や、その事後研も含めて、研究のあり方、進め方もアップデートが必要なんじゃないだろうか。子どもたちの学びだけではなく、私たち大人の学び方、研究の仕方も積極的に変えていきたい。



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