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執筆者の写真Toshihiro Doi

改善か革命か

梅雨が戻ってきたかのような連日の大雨、長雨。九州の人たちは台風にはある程度耐性がある。いつも台風の通り道になるので、子どもの頃からどんなもので、どういうことをすればいいかを体感としてわかっている。でも、ここ近年の傾向として、信じられないような雨量で、長時間続く長雨は、終わりが見えないので厄介な上に慣れていない。


一過性の台風は凌ぎ切れば終わるし、翌日のスッキリした晴れ間の心地よさもわりと好きだ。でも川の水位がじわじわ上がり、氾濫したり、土砂崩れが起きるタイミングは予想できない。本当に厄介な気候だ。何よりせっかくの休みを、ずっと家で過ごすしかないのはしんどい。早く夏らしい日差しが戻って欲しい。





今週のブログは「改善か革命か」というタイトルにした。改善の英訳は「improvement」単語としての意味は「改良、改善、進歩、上達」となっている。

教育の界隈では「授業改善」という言葉がずっと使われてきた。


もちろん、今の自分の授業をよりよくする、という文脈ではとっても大切で、常に意識すべきことだと思う。例えばそれは、教師の発問の質を向上させる、とか、児童生徒の様子をつぶさに観察し、声かけの質を上げ、適切な指導を施す、板書計画を綿密に練り上げ、授業の展開がわかるような構造的な板書をする、といったようなことだ。他には指導案をより良いものにする、といったこともあるだろう。


しかし、今必要なことは、いわゆる授業技術のことなのだろうか。これまでは、授業を改善するのは教師だ。全ては教師がどうあるべきか、教師の立ち振る舞いや在り方、授業の指導者として教師がどうあるべきか、ということの延長線上にある。しかし、学びの主体者を子どもたちに持っていくとき、それはどうあればいいのか。





「改革」の英訳は「innovation」だ。どちらかというと”innovation”の方がしっくりくる。意味は「改革、革新、刷新、一新」となっている。これまでの教師主導の学びから、子どもたちの主体的な学びを支援する「子供の主体的な学びを支援する伴走者としての能力」がこれからの教員には求められている。


強力に推し進められてきたGIGAスクール構想や、「令和の日本型学校教育」の構築に掲げられた崇高な理念をよくよく吟味し、思考を深めていけばいくほど、今求められていることは明白で、授業技術ではない。


しかし残念ながら、大多数の先生たちのイメージしている授業像は「改善」のフェーズから抜け出せていないような気がしている。だから「教師である私がしっかり学ばなければ」という思考になる。それは今までの成功体験や、自分が体験してきた、出会ってきた「いい先生」「目指す先生」のイメージがそこにあるからだと思う。





今の子どもたちが出ていく未来の世界は、もっとグローバルで、もっと多様で、複雑なことは間違いない。今までの変化のスピードの何倍もの速さで世界は動いていて、このコロナのようなことは、これから先も形を変えてやってくるだろう。もっと酷いシナリオだってあるのかもしれない。


そんなしんどい世の中を、柔軟に、しなやかに生きていくためには、私たち大人が主導権を握り、子どもたちをコントロールし、自分の思考の内側で支配しようとすることが、子どもたちの可能性を狭めていくことになるかもしれない。


子どもたちの可能性を信じ、自分を飛び越えていく姿を認め、面白がり、褒められる大人が必要だ。そのための場が学校であり、日々の授業だ、と捉えると、授業デザインはどうあるべきか、先生の立ち位置はどこにあるべきか、ここをみんなで議論し、思考し組み立てていきたい。

それは「改善」ではなく「改革」innovationだ。innovatorになり得る先生が今必要だ。


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